本紙 110× 28,2㎝
軸装 182× 39,5㎝
紙本墨画

大雅さんが若い頃に、筆の代わりに
指や爪を使って絵を描いた指墨(指頭)画。
この手法は、中国清朝の画家高其佩(こうきはい)が始めたとされています。
日本にもたらされ、それを大雅に勧めたのは、
柳沢淇園だったらしい。
柳沢淇園は大和郡山藩の家老(とっても身分の高い殿様)でもあり、
柳里恭の名で知られる超一流絵描きでもある文人。
大雅を見出し、上流社会を紹介し、生涯応援してくれた、
大恩人でもあり大パトロンです。

お酒の席などで
即興で余興のように描かれることが多かった指墨画を
大雅は自分の表現方法を確立する手段として極めていきます。

寛延元年(1748)、
26歳で江戸に滞在中の大雅は、
諸侯のお屋敷に招かれて、
その場で指墨で作品を描いて披露し大人気だったそうです。

この作品にも
「九霞指墨」
とはっきり記しています。

本作品は、
中国文化に強い憧れを抱いていた大雅の
中国古典4美人の一人「西施」を描いた作品。

3つの印の内、
「泉石膏盲」白文方印と、
「光風霽月」朱文長円印の二印は、
京都国立博物館蔵《寒山拾得図》に捺されたものと同じです。

「泉石膏盲/せんせきこうこう」は、
人里から離れて自然の中で生活したいきもちが、
直らない病のように強い、の意。

「光風霽月/こうふうせいげつ」は、
心がさっぱり澄み切って爽やかなこと、の意で、
款記のある作品では、
《霊沼荷香図/れいしょうかこうず》享和4年(1747)大雅25才
(2018年京都国立博物館・池大雅展№48)に、使われています。

共に、20歳代の作品に捺される印章です。

池大雅作品集(昭和35年中央公論美術出版)掲載作品中では、
4作品に同時に捺されています。

人物の描き方も、京博蔵の寒山拾得図と同じ手法です。
髪部分は指先を押し当てて描かれ
樸童の髪部分には、指紋がくっきり残っています。
爪で描いたと思われる衣のドレープや、
指でこすりつけてつけた薄い墨の影も、
非常によく似ています。

もう一つの「九霞山樵」朱文方印も、20才代作品に捺された印章。

《指墨呂洞賓図》享和4年(1747)・大雅25才は、
本作品と同様に、
「泉石膏盲」白文方印、
「光風霽月」朱文長円印、
「九霞山樵」朱文方印の3つが同時に使用されています。

紙の上部が広く空いているのは、
あとから、
誰かに賛を入れてもらうためだったかもしれません。

大雅は、
画風を確立すると、
どんな美人も下膨れたおかめ顔に描きますが、
本作品は20代、若い時代ならではの初々しい姿。
美人を美人に描いています。
指墨ならではの墨跡が、
優しい目元の睫毛を上手く表現しています。

北陸の旧家旧蔵。
大雅さんは27、28歳の時に北陸地方を旅していますので
その時に描かれた作品と推察できます。

九霞指墨
「九霞山樵」朱文長方印
「泉石膏盲」白文方印
「光風霽月/こうふうせいげつ」朱文長円印

軸装・本紙共に虫食い、折れ、汚れがあります。

時代箱付

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池大雅
享保8年(1723)~安永5年(1776)
諱/橆名(ありな)・勤
字/貨成・公敏
号/大雅堂・三岳道者・霞樵・九霞、他

京都に生まれ活躍した、絵師で書家、文人。
当時、応挙・若冲と並ぶ、大人気アーティストです。
20才代ですでに名声が高く、
旅が好きで日本各地を旅したため、
日本各地に大量に贋物が存在しています。

近世の絵師で、
国宝・重要文化財に指定されている作品は大雅が最も多いことは、
現在ではあまり知られていません。
文化庁にも数多くの大雅作品が収蔵されています。

川端康成、梅原龍三郎、谷川徹三ら
一流の文化人、画家たちも大雅に魅了され、
その作品を愛藏されていました。
国宝に指定されている「十便十宜図」は川端康成さんの旧蔵品です。

指紋がくっきり! 京博の作品と照合したら面白いでしょう。