本紙 113 ×29,7㎝
軸装 180,5 ×42,8㎝
紙本

又玅斎直叟玄室
(ゆうみょうさいじきそうげんしつ)
嘉永5年(1852)~大正6年(1917)
裏千家12代

パッションのほとばしった、
生き生きとした一行です。
昂る気持ちを筆に託した、
と表現しても、言い過ぎではないと思います。
強く、非常に速い筆です。
千家の家元というよりも、
厳しい修行を経た禅僧の書のようです。

又玅斎の岳父・裏千家11代玄々斎は三河の殿様・松平家に生まれ、
子どもの時に10代認得斎の養子になり、
認得斎の息女と結婚して11代を継ぎました。
37歳で男子が生まれ、次代の裏千家家元としてとっても期待していたんですが、
その跡取り「一如斎」は17歳で夭折。
玄々斎は次の年に三河のお兄さんの末子・渡辺織衛正綱を養子に迎えます。
しかしこの養子・玄徹斎(宗淳)は、三河に帰ってしまうんです。
で、玄々斎は明治4年(1871)、
娘婿として、角倉家から12代又玅斎を迎えます。

でも、京都府の御一新の通知で、
大阪の陣以来の幕府側であった角倉家は、
明治2年(1869)には、
賀茂川・嵯峨川高瀬舟の永代家領などの特権を、
剥奪されています。
又玅斎さんは、肩身が狭かったんでしょうね。
34歳で、14歳の息子(円能斎)に家督を譲っています。
玄々斎さんはなぜ、明治政府に目の敵にされた角倉家から、
婿養子を迎えたのかな。

又玅斎を婿養子に迎えた翌年、明治5年には、
茶の湯を遊芸として芸能鑑札を設けようとした明治政府に、
「茶道は遊興ではなく、人の道です」
と、玄々斎は《茶道の源意》なる口上書を提出して、
茶道の日本文化における地位が、
ご維新のどさくさで貶められるのを防ぐ大きな功績も果たされています。

現在の社会では、到底想像できない、
壮絶に過酷な社会情勢の中で、
《茶の湯》と、裏千家を守り継承する責任を全うし、
迅速かつ、適正な裏千家の次代を世の中に表明しなければならなかった、
玄々斎の奮闘を、想像するばかりです。

又玅斎を迎えてすぐに、円能斎を授かっていますので、
もともと、玄々斎の息女と又玅斎は、
良い仲であったのかもしれません。

本作品は、
歴史の中では、あまり光の当たらない又玅斎が、
内に情熱を内在し、
教養も、精神的にも非常に高みを極めた方であったことを
雄弁に語る書です。

「本来無一物」

激動の時代に破格の大豪商の家に生まれ、
裏千家の12代を任された一人の男の、
肚の底から湧き出た思いが筆にのった名品であると、
私は思います。

簡易な紙表装、
加えて汚れがひどいこと。
箱も下手な作りで汚れています。

それが、
又玅斎さんの立場の弱さを表しているようです。
汚れはございますが、
床に掛けると気になりません。
むしろ、この一行に凄みを与えています。

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又玅斎筆本来無一物

 

  


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