本紙 約25 ×58㎝
軸装 約110 ×69,7㎝
紙本
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澤庵宗彭
たくあんそうほう
天正元年(1573)~正保2年(1646)
たくあん漬けの澤庵さんです。
戦国の世の覇者・徳川幕府の成立によって、
それまで朝廷との関係で確立していた大徳寺・妙心寺の決まり事や朝廷の権利が 幕府将軍によってはく奪されます。
それに正面から抵抗した澤庵ら高僧たちは、
京都から遠い本州最北の地に流されます。これが紫衣事件。
ですが、流されて関東に滞在していた澤庵さんに帰依した将軍家光によって、
澤庵らが許され京都に戻った後、
失われようとしていた秩序・権利は回復されます。
とてもざっくりいうと、
「オレがこの国の頂点だ、オレの言うことをきけ」
と言っていた将軍が、直接会って交友するうちに、
「澤庵禅師は凄い方だ。この方の教えについていこう」 ってなったわけです。
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江月宗玩
こうげつそうがん
天正2年(1574)~寛永20年(1643)
号/ 欠伸子・懵袋子 他
大徳寺第156世
江月さんは安土桃山時代、南蛮貿易で巨万の富を得た堺の豪商、
当時日本一の金持ちといわれた天王寺屋の次男として誕生し、
大徳寺龍光院(りょうこういん)の開祖の春屋宗園のもとで学びました。
父親は、大貿易商であっただけでなく、
織田信長や豊臣秀吉に茶頭としても仕えた津田宗及(つだそうぎゅう)。
当時お金持ちは、跡取りでない子息をお寺に入れ 教養を身に付けるのが流行ったのだそうです。
学問、禅の才能に優れ、人としても優れた方で、
当時の文化《寛永文化》の中心人物でした。
澤庵さんのプロフィールに書いた紫衣事件では、江月さんは大徳寺に残されました。
奥羽に流刑になった澤庵と玉室宗珀の二人赦免を請うために、
江月さんは江戸に赴き、三年滞在してようやく許されます。
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一日過正傳古寺ゟ小▢信州回
見花酔後戯▢狂詩傍有
道閑老人他▢求書之我非言詩者
写一庄之奥而已▢何是留之
筆老人狂請不止於此出▢
一樹紅櫻春幾回二忘草木
引朋来今宵不醉被花笑
君亦数杯▢数杯
「宗彭」朱文方印 「澤庵」香炉印
櫻雪知無奥尽回
剡溪元慶二三來
懶生涯若陪遊宴
醉後杯添醉後杯
大仙正傳寺 白櫻下之遊奥予
不同伴翌日見此
華偈奉和厳韻
重而依道淘起之
求書焉
宗玩拝
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紫衣事件の主役、桃山~江戸初期を代表する大徳寺の高僧二人の筆が並んでいます。
沢庵さんの紙に、江月さんの紙が繋げられ、
江月さんの書いた文字が澤庵さんの紙にちょっとはみ出していますので、
沢庵さんの書いたところに江月さんが足して書いたことがわかります。
消息などでは、非常に非常に美しいお手の沢庵さんですが、
本作品の姿はかなりラフです。
花を見て酔って戯れに詩が浮かんだ、と書かれ、その後ろに七言絶句が記されます。
確かに、筆に意図せぬ姿の部分があって、
酔っぱらって書いたのかもしれないと思わせます。
沢庵さんが詩の中で紅櫻を詠んだのに呼応して、
江月さんは詩の中で「櫻雪」と詠み、
更に加えられた言葉に白櫻と入れています。
明るい言葉がたくさんちりばめられています。
奥羽に流刑になった澤庵と玉室宗珀の二人は、
江月さんの幕府の有力者への働きかけにより三年で将軍に許されますが、
まだ京都に戻ることは許されず、二人は奥羽から江戸に移ります。これが寛永9年(1632)。
この江戸滞在の間に将軍家光は澤庵さんに帰依したんですね。
それから二年後に、やっと京都に帰ることを許されます。
江月さんの年譜「欠伸年譜草」には、
寛永11年に許されて三人で京都に帰る時、木曽の山道を通って、 途中で各々詩を作ったと書かれています。
ここからは私の推測ですが、
木曽路であれば、本作品の1行目にかかれた信州は帰路の途中です。
本作品は、許されて5年ぶりに京都に帰る途中で書かれたのではないかしら。
人生50年の時代に、この時60才と61才の二人。
老いた二人にとって、帰京はこれ以上ない喜びだったでしょう。
そう考えると、
澤庵さんの文字がラフで踊っていることや紙が上等でないことも、
紙が継がれていることも、
お酒の杯を重ねるといった内容も、
高僧の軸装のお約束から外れていることも合点がゆきます。
内容を写した紙2枚と札が付随します。
時代箱
¥385000
消費税・送料込
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落款部分
継ぎ目箇所
小穴有り
風帯の裏まで良い古裂です
巻留め
裏

付属品

