本紙 106,6 ×29㎝
軸装 186 ×43,5㎝
紙本着色
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木村蒹葭堂/きむらけんかどう
元文元年(1736)~享和2年(1802)
大阪の人
名/孔恭(弘恭)
字/世粛
号/蒹葭堂、巽斎(遜斎・そんさい)
通称/坪井屋吉右衛門
大阪北堀江で、酒造株の貸付などを営む町人の家に生まれ、
絵画詩文を学び、茶を嗜み、本草学・物産学を学んで様々なものを蒐集。
コレクション品の出版にも携わる、多芸多才、博識博学な知の巨人。
彼の元に全国からたくさんの文人・知識人・芸術家が集まり、
文化芸術の大サロンとなっていたんです。
植物・魚・菌類・虫・貝・諸国物産、
ありとあらゆるものを集めて、記録、
イッカク(北極海周辺に生息する鯨の一種・オスは頭部にユニコーンの角のような歯を持っています)の研究本も出しています。
蒹葭堂の蔵書は、彼が病に倒れたすぐ後、享和3年(1803)に昌平坂学問所に献呈され、
現在は国立公文書館内閣文庫に所蔵されています。
大和郡山藩の老中で、絵師・柳里恭としても名高い柳沢淇園の紹介で、
池大雅と出会ったのは、13歳の時。
大雅は13才年上の26才でした。
以来、大雅が没するまで大変親しく交友しています。
蒹葭堂は大雅から画を学びました。
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蒹葭堂が、真っ赤に色付いた紅葉の一枝を描いています。
みんなこちらを向いて、笑っているような紅葉です。
その上に、書かれた大雅の題讃は、
秋爽覓崢嶸〇襟却世情橋〇紅葉賞
寺香白雲名山齊飯無菜石爐茶轉烹
晩来最適意日射古鐘銘▢▢▢起南
窓下黄花藍四鄰〇無陶今句時有遠
公憐〇鼎観真佛安心會化貧家僮従
偃籃轝負秋天▢▢▢▢▢▢▢▢▢
▢▢蒹葭名需即且題▢霞樵印印▢
大雅作品には非常に珍しく、
朱で界線を引いて、その中に小楷で讃を書いています。
とても丁寧な筆。
この人の書は、優しく、力強く、
見る者を癒す不思議な力に満ちています。
出典が見つけられませんので、
大雅の自作の詩と思われます。
最後の一行により、
まず蒹葭堂が描いた画作品に、
大雅が題賛を記したことがわかります。
大雅の印章は、
「池橆名戴成印」白文方印
「九霞樵者」白文方印
この二つの印章は、ほとんどいつもペアで捺されます。
款記によりわかっている一番早い作品は、40才の時に描かれた《画式四種》。
40才代作品に数多く捺され、最晩年まで使われています。
明和7年(48才)に描いた《春出雲岬図》にもこの2つの印章が捺されているんですが、
この年二月に、蒹葭堂が開催する書画会が、大阪城南の龍泉寺であったのです。
《春出雲岬図》は、この書画会で大雅が最初に描いた作品です。
「《春出雲岬図》の画軸を制作したけど、蒹葭堂はもっと濃厚な彩色の密画を求め、
それは自分の専門外なので、更に(この)《竹巖新霽図》を描いて責任を果たす」と、
《竹巖新霽図》の題賛に大雅が書いているんです。
そしてこの題讃は「銀泥で界線を引き」と画譜の説明書きに記されています。
画譜をみると、確かに、本作品と同じように縦横の界線が引かれ、
一行目と最終行は、本作品と同様に空欄。
印章は「池橆名戴成」白文方印、同じ印章・同じ位置です。
ちなみにこの作品には「蒹葭堂」朱文長方印が捺され、
蒹葭堂その人の愛蔵品であったことが判明しています。
蒹葭堂の書画会は旧暦の2月で春。
本作品は秋を描いた(書いた)二人のコラボ作品。
共に同じ印章が捺されていること、
普通でない、気合の入った讃の書き方から、
明和7年の前の年の秋、または同年の秋に制作されたのではと、
想像が膨らみます。
蒹葭堂の紅葉に図の款記は、
「蒹葭世粛写」
20文字が篆書で刻された朱文長方印ですが、
一般的な印譜集には載っていませんでした。
大雅の讃は間違いなく大雅に筆ですので、
画が蒹葭堂の筆であることに疑いはありません。
経年による細かな折れはございますが、
決定的な折れや目立つ汚れのない良いコンデイションです。
非常に手のかかった差し込み式蓋の箱。
大雅堂を作った月峰の子・義亮(1800~1865)による
文久2年(1862)の墨書きが箱の蓋裏に記されています。
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