大雅が20才代の時だけ使った印章
◆泉石膏肓/せんせきこうこう◆
「膏肓」は、
鍼の名医でも、皇帝の体の奥底〈膏肓〉に病が入り込んでいて、
治癒が叶わなかった中国の故事に由来しています。
確か、横隔膜の奥です。
「泉石」は清らかな泉と、その石の意で、
人の手の加わらない自然のこと。
合わせて、《泉石膏肓》は、
「清らかな自然の中で暮らしたい気持ちが強固です」の意。
昭和35年に出版された《池大雅作品集》(中央公論美術出版)に収録された811作品の内、
この印章が捺された作品は4点。
作風から、すべて20才代の作品と考えられます。
そのうち描かれた年が明記されているのは、
「呂洞賓像」1作品のみで、
延享4年(1747)、大雅25才。
制作年のはっきりわかる、最も若い大雅作品は、
故郷へ帰る五十嵐俊明に贈った「渭城柳色図」で、
延享元年(1744)二月、大雅は22才ですので、
25才は画業として最初期です。
《泉石膏肓》印は、
弊店の「西施図/せいしず」にも捺されています。
◆池大雅筆 西施図◆
この作品は指墨画で、作品には指紋がはっきり見えています。
京都国立博物館蔵「寒山拾得図」に、作風が非常に近く、
20才代の作品です。
心が澄み切ってわだかまりが一切ないことを意味する
《光風霽月》印も、
20才代でのみ使われています。
世俗の穢れ、煩わしさから一切離れ、
物理的環境も、心理的環境(社交)もすっかり清らかに生きたいのなら、
浦上玉堂のように、
社会から逸脱してしまうのが、手っ取り早くて完璧です。
浦上玉堂は、50才で脱藩し、二人の子供を連れて文人仲間の間を放浪、
琴を弾き酒を飲み、心のままに画を描いて生きました。
でも、大雅は京都祇園の端で、生涯、市井の中で生きました。
画を描く、書を書くということは、
人の営み、人が生きることと切って切り離せないものである、ということであったからでしょう。
大雅には、臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴に奉じた偈があります。
白隠の公案(本当に悟りを得たかの試験問題のようなもの)に、
大雅は答えを見つけ、備前から駿河への帰路、京都に宿した白隠に奉じたんです。
それは29才の時と考えられていて、
白隠に最初に会ったのは26才であったともいわれています。
26才からずーっと答えを自分に問うていたのかもしれません。
人の精神に深く届く、人の精神を激しく揺さぶる作品であることは、
同時に、人の煩悩そのものに触れる作品であることです。
独りよがりの自己満足ではなく、人の精神の根底、美の根底に通じるなにかを表現できること。
白隠によって禅を得たことで、
大雅は、吹き抜ける風のように、雨上がりの月のように澄み切った精神のまま、
世俗の煩悩の中で自分の仕事を全うする道を得たのでしょう。
それがいったん自分のものになったら、
印章で捺して主張する必要がなくなったのじゃないかな。
丸出しにするのは、ちょっとカッコ悪い。
《泉石膏肓》印が、30才代以降使われなくなったのは、そのためだと思うんです。
泉石膏肓白文方印
光風霽月朱文楕円印