本紙 17,6 ×54,3㎝
軸装 125 ×56,5㎝
紙本
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益田鈍翁
嘉永元年(1848)~昭和13年(1938)
本名・孝
佐渡の幕臣の家に生まれ、聡明慧敏な頭脳、人柄で、
三井物産を設立し、繁栄させた三井財閥のトップリーダー。
ご維新後の日本を近代化に導いた経済界の巨星の一人です。
同時に、
日本の古美術、とりわけ最高峰の仏教美術を
茶の湯に取り入れた大茶人です。
江戸幕府から明治政府へと世の中が激変し、
それまでお茶の庇護者であった各地の殿様達に代わって、
新たに支配階級に君臨した新興経済人達が
お茶の庇護者となりました。
その中心、
太陽が鈍翁さんです。
当時、お茶は政治経済のトップリーダー達の、
最高の社交の場であったんです。
高松即是
明治22年(1889)~昭和22年(1948)
三代高松定一/本名・齢吉
江戸時代から続く名古屋の豪商。
第十二代名古屋商工会議所会頭。
高橋忙閑
明治21年(1888)~昭和47年(1972)
二代高橋蓬庵/本名・正彦
名古屋の経済人数寄者
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暮も正月も 老いぼれ
には分からぬ 御文が舞
込み 謹て拝見ハ仕り
ましたが 何がなんだか
頭脳の取込 春ながに
ゆるゝ拝承致しませう
夫(それ)よりハ 先づ新年の
賀上不申述候てハ
御小言も出ん
おめでたふ
けさ可様なものが
此草庵に舞込
ました
小雀がちうゝ
いふても 老の耳
やらぬが佛
きかざるの爺
怱々かしく
一月初六日 花押
即是
忙閑両兄侍史
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大正12年の関東大震災で被災した
鈍翁さんは、
即是さんのところに一年ほど疎開されていたそうですので、
40才以上年が離れていても
よほどお親しい間柄だったのでしょう。
忙閑は、
初代高橋蓬庵(本名・彦三郎/号龍渓)の嫡子(一説に弟)の号。
初代が自邸に造った茶室の庵号が「蓬庵」で、
この庵号を記した扁額は鈍翁さんの筆による揮毫。
数寄者は、普通は号で呼ばれますが、
庵号で呼ばれる方も珍しい。
二代に渡って、鈍翁さんと非常に親しいご関係であったことが、
容易に推測されます。
この茶室「蓬庵」は、忙閑さんが昭和41年に、熱田神宮に移築されています。
文中にある
「ゆるゆる拝承致しましょう」
は、
即是さんと忙閑さんが、鈍翁さんになにかご相談事をされたのでしょうね。
もし、震災の次の年であるなら
鈍翁74歳、即是33歳、忙閑32歳です。
右上から左に傾いた書き様、
「おめでとう」
は、ぱっと目に入るよう、独立した存在感に書かれ、
以降はどんどん左へ下がり、
書止の「怱々かしく」はぐっと大きく伸び伸びとした姿で、
アクセントとして素晴らしいバランスです。
消息全体の姿がとても美しい。
古美術の審美眼の頂点に君臨された方は、
ちょっとした手紙も一つの作品として完成されています。
本紙に僅かにシミが、
貼り風帯にシミがでていますが、おしなべて綺麗な状態です。
画像でご確認ください。
忙閑による箱書き。
お茶の事が書かれたのでもない
他愛のない内容の手紙に上等な表具を施し、
箱を設え、
この手紙を非常に大切にされていたことがわかります。
¥250000
消費税・送料込
本稿制作に辺り、独自にお茶研究をされている数寄者の方のご教示と、
古文書解読家のご指導をいただきました。
この場を借りて厚くお礼申し上げます。