本紙 約31,3 × 46㎝
軸装 約111 × 48,2㎝
紙本

澤庵宗彭
(たくあんそうほう)
天正元年(1573)~正保2年(1646)

たくあん漬けの澤庵さんです。
花押が切ったたくあんに似ていますね。

いわゆる、紫衣事件で、それまで朝廷との関係で確立していた大徳寺・妙心寺の決まり事や朝廷の権利が、
幕府将軍によってはく奪され、
それに正面から抵抗した澤庵ら高僧たちは、京都から遠い本州最北の地に流されます。
その後、許され京都に戻った後、
流配中に澤庵さんに帰依した将軍家光によって、
失われようとしていた秩序・権利は回復されます。

本作品は、書かれた内容から、
朝廷・大徳寺・妙心寺等々を揺るがす大事件が無事に解決した2か月後、
寛永18年5月28日に書かれた、
澤庵さんの消息(手紙)と考えられます。

感動的に美しいお手です。

□ 本文 / 読み下し □

芳翰拝披如 / 芳翰拝披。
来意久不▢ / 来意の如く久しく不▢
閑談疎闊之至 / 閑談、疎闊の至り。
旦中就入院之 / 旦中入院の儀に就き 、
儀禮書之事 / 禮書の事
承候直住持并 / 承り候。 直住持并(ならび) 
老宿相副参府 /  老宿相副(そ )へ参府
被申 / 申され、
御諚之旨承被 / 御諚の旨承り、
致帰府候間又 / 帰府致され候間、又
尤珎重之旨返答 / 尤も珎重の旨、返答
重而禮状入 / 重而(かさねて)禮状入り
申間敷候 / 申す間敷候。
御諚出候而即御 / 御諚出で候而、即ち御
禮被申上御暇出候上 / 禮申し上げられ御暇出で 候上、
重之禮并礼状 / 重ての禮并に礼状
不可及其儀歟之 / 其儀に及ぶべからざる歟の
儀大徳衆被致其 / 儀、大徳衆其
覚悟候条妙心寺も / 覚悟致され候条、妙心寺も
可有入魂候条御 / 入魂有るべく候条、
氣遣候間敷候恐惶 / 御氣遣ひ候間敷候。恐惶
頓首

五月廿八日 東海寺宗彭

拝復東禅丈室 侍衆閣下

ーーーー

尚々妙心寺入院之 / 尚々、妙心寺入院の
儀も大徳同前之 / 義も、大徳同前の
事一派之条 / 事。一派の条、
無相替事 / 相替り無き事、
御心得候而可然様ニト / 御心得候而、然るべき様にと
申候儀江月天祐両老 / 申し候儀、江月・天祐両老、
上洛之時板倉防州ヘ / 上洛の時、板倉防州へ
委以書状申候間其段 / 委(くわ)しく書状を以て申し候間、其段
是又御心安可被思召候 / 是又御心安く思召さるべく候。
間大徳寺機庵ト申人 / 大德寺機庵と申す人
改衣之儀従大徳以連署 / 改衣の儀、大徳より連署を以て、
所司代へ被申候處無別 / 所司代へ申され候處、別無く(問題無く)
御座候而当月中旬比 / 御座候而、当月中旬比、
新命評諚有之旨 / 新に評諚を命じこれ有る旨(予定)
申来候妙心も大徳之 / 申し来り候。妙心も大徳の
様子被懇聞候て大徳寺 / 様子懇聞させれ候て、大徳寺
所司代ヘ被申入候 / 所司代へ申し入れられ候
様子入魂ニテ以同心持 / 様子入魂にて、同じ心持を以て
被仰可然之由 /  仰せられ、然るべきの由、
徳翁座主 / 徳翁座主
上洛之時申談候条 / 上洛の時申し談じ候条、
定而妙心亦可為其通候 / 定而妙心も亦た、其通りたるべく候、
御氣遣被成間敷候 / 御氣遣い成され間敷候。

□ □ □

いわゆる歴史上の「紫衣事件」は、ざっくりこんな経緯です。

江戸幕府が成立した後、
それまで、朝廷の管轄であった寺院の組織・ルールなどに関する重要な決まりごとを、
幕府による統制下とする法度、
慶長18年(1613)「勅許紫衣並山城大徳寺妙心寺諸寺入院の法度」
同20年(1615)「禁中並公家諸法度」が出されます。
でも、後水尾天皇は、寛永3年(1626)、
法度を無視して、幕府に無許可で、
それまで通り高僧の証である紫衣着用の勅許を僧侶たちに与えました。

将軍家光は、法度に背いたことに厳しく対応し、
勅許状を無効とし、京都所司代・板倉重宗に紫衣を取り上げるよう命じます。

これに対して、
朝廷と切っても切れない深く強いつながりの大徳寺の
澤庵・玉室宗珀・江月宗玩、
妙心寺の単伝士印・東源慧等らは、
寛永5年(1628)抗弁書を幕府に提出。

これによって、寛永6年(1629)
澤庵・玉室・単伝・東源は、それぞれ出羽や陸奥に流刑になります。

澤庵さんは流された出羽上山で、
藩主の土岐頼行公の深い帰依を得るんです。
流された地でも、澤庵さんの禅は、大きな影響をもたらしたんですね。

京都の大徳寺に残された江月さんは、江戸に赦免の懇願に行きます。
寛永7年の春に出かけ夏に戻り、また冬に江戸に出かけ、
3年の間、赦免の実現のために有力者に働きかけ続けます。
寛永9年、徳川秀忠の死去に伴う大赦令によって、
澤庵と玉室は赦されますが、
まだ、京都に戻ることは許されず、江戸に滞在、
その滞在の間に、将軍家光は澤庵さんに帰依します。

澤庵さんは、37才で大徳寺第154世住持(トップ)になりますが、
3日で大徳寺を出たとされています。
上皇からの国師号授与の内示も断っています。
「名声も権力も要りません。」
と、中身だけにこだわった澤庵さんに、
自分の権力に逆らったことで処罰した張本人の家光その人が深く帰依する。
想像を絶する悟りの境地、人間力を持った方だったのでしょう。
寛永16年5月に、家光は萬松山東海寺を創建し、澤庵さんが初代住職となります。

「沢菴和尚書簡集」所収の「寛永十八年三月廿八日」書簡の文面に、
「大徳寺之儀相濟、一代の隙明申候」とあり、
紫衣事件ではく奪された権利の復活が正式に成就したことがわかります。
このことは、古文書解読家の知人からご教示いただきました。
この場をお借りして深くお礼申し上げます。

本作品は、寛永6年に流刑になって、12年かけて念願をかなえたすぐ後の手紙です。

古い消息を読み下すことは、
誰にでもぱっとできることではありませんが、
ただ書として鑑賞しても、あまりにも美しいお手です。
私は、内容を理解するより先に、
この書の美しさに打たれました。
そして、大徳寺・妙心寺といった名前がかかれていること、
「江月・天祐」の名前が澤庵さんの筆で書かれていることにも感動します。
歴史のワンシーンの切り取られた消息です。

本紙に目立つ汚れ・傷みはございません。

大綱宗彦(大徳寺第435世安永元年~安政7年)による
極め書き箱
《箱裏に龍寶山大徳寺龍源禅院常住」の墨書き》

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澤庵消息

 澤庵消息

 

軸装には傷みがございます
裏面
 
巻き留め部分に傷みがございます
掛けることには差しさわりありません

大綱による箱の蓋裏の極め書き
天保十四年卯十月 糸屋町橋本左郎兵衛寄付 作夢(花押)
個人情報部分が擦り取られています

箱蓋表
沢庵和尚與東禅丈室書翰
澤庵消息
巻き留め部分と箱の裏面
箱裏に龍寶山大徳寺龍源禅院常住」の墨書き

塗の軸先に漆の剥げがございます