長 18㎝
蓮弁型櫂先・丸撓
本樋・双樋
蟻腰・中節
四刀

松永耳庵
明治8年(1875)~昭和46年(1971)

本名・安左エ門
長崎県生まれ
福沢諭吉を崇敬し慶應義塾入学中退、
三井呉服店・日本銀行を経て貿易業を営んだのち
福博電軌鉄道を設立したことを皮切りに電力事業に携わり、
日本の近代化に大きく貢献した人。
戦争中には、
国家の電力管理政策に強く抵抗し、
「電力の鬼」と、異名されました。
60才の時に、鈍翁/益田孝の策で初めてお茶会をして
お茶にハマり、
たった三年で「茶道三年」を著わすほどの茶人となります。

書画骨董の師は魯山人ですが
後に大喧嘩して決別します。

大茶人、原三渓のお茶の愛弟子でもありました。

文化庁が購入しようとしていた平安仏画の傑作、
国宝《釈迦金棺出現図》を購入したことでも有名です。
心血を注ぎ、並み居る強豪を蹴散らして蒐集愛蔵された茶道具は、
東京国立博物館に寄贈されました。

「花筐/はながたみ」は、
世阿弥作の能の演目でもあり、香の名前にもつけられた古典の言葉。

世阿弥の「花筐」は、
男と引き裂かれ狂った女が、
男から贈られた花筐(花籠)を手に、男の前に現れ、
正気を取り戻す物語です。

(この女性・照日前を描いた上村松園の傑作「花がたみ」が、
ご所蔵の松伯美術館で10/8~12/28に展示されます)

電力政策において、国家権力相手に一歩も引かず、
庶民のために、自身の信念を曲げることのなかった耳庵が、
女の、狂うほどの男への愛しさ、
それを知り、再び女を傍に置くと決めた男、というような、
男女の情愛に基づく銘を、茶杓につけていたのは、とても意外です。

非常に出来の良い茶杓です。
耳庵八十八才、昭和37年(1962)。

たくさん茶杓を作る茶人は、
ご用達の下削り師がいて、おおよそ形ができたところに、
最後にちょっと手を加えて自身の作とすることが、利休時代から当然ですが、
本作品は、そうと考えにくい造形です。

茶杓の裏側、節上にも節下にも、
竹の内側に薄皮が付いたままの箇所があるんです。

余裕のある肉厚の竹から削り出したのではなく、
この厚みの竹を用いています。
一発勝負で削って、ぎりぎりに形を出しています。
耳庵が、その美意識とお茶哲学の結晶として最初から終わりまで作られたのでしょう。

MIHO MUSEUMで平成30年に開催された茶杓展
「百の手すさび/ 近代の茶杓と数寄者往来」の図録には、
5本の耳庵の茶杓が掲載されています。
どれも耳庵が手づから削ったであろう良い茶杓ばかりです。
それらを拝見しますと、
本作品はかなり優しい姿です。

節を超えても細く、舟の櫂のように幅を広めて、櫂先に向かいます。
細身で、エレガントなフォルムです。
櫂先は菊の花びらのようにやや尖って丸く、やさしいアール(撓め)。

節の上に、ちょうど帯のように色の濃い一筋があり、
彷徨い歩いた女の装束の裾がはだけるように、
三筋竹の皮が剥かれて、中がむき出しになっています。

全体としてまっすぐではなく、
節の辺りが微妙に右に歪んでいます。

これ見よがしでなく、
わずかに、正気でないことを感じさせる姿です。

秋の夕焼けのような濃淡の竹を用いた筒。
少し荒れた部分がやつれた景色を加えています。
照日前が、迷い歩いて着ているものが少し傷んでしまった、
と感じるのは、私の感傷かもしれません。

筒書きの書は屈託のない書き振りで、
筒の蓋との合口の割り印は《丸》。
「大満足! 完璧!」と言っているようです。
箱の蓋裏の書も、これ以上なく自由奔放です。

どこもかしこもシビレる茶杓です。

参考品


松永耳庵作茶杓銘花筐

     



 
竹の薄皮の残る部分
松永耳庵作茶杓銘花筐 

  

 

松永耳庵作茶杓銘花筐