長 約18,1㎝
丸櫂先
三刀
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玄々斎精中宗室
文化7年(1810)~明治10年(1877)
裏千家11代
玄々斎はもともと、三河奥殿藩四代藩主松平乗友の子息として生まれ、
10歳で、認得斎の養子になり、
認得斎没後、その長女と結婚して裏千家11代を継ぎました。
長女の亡くなったあと、次女を後妻とし、
その次女との間に生まれたのが、一如斎(1846-1862)です。
玄々斎37歳で授かった待望の跡継ぎ、
しかも非常に才能豊かな人で、玄々斎の期待を一身に受けた一如斎でしたが、
17歳で夭折してしまいます。
この時から玄々斎は「不忘」の号を使ったそうです。
その落胆と傷心、それに絶対に負けないぞ、の強い心情を、
「不忘」の言葉に刻んだのでしょう。
世の中がご維新の大混乱の時、
玄々斎も自らの跡継ぎを失い、
公私に渡って、非常に厳しいシチュエーションに立たされます。
お兄さんの末子を養子にしますが、すぐに逃げられてしまいます。
お兄さんが亡くなるや否や、
娘に角倉家から婿養子を迎え跡取りとしました、
それが12代又玅斎です。
幕末からご維新、明治新政府へと、
世の中が激動し、ひっくり返った動乱期に裏千家を守り抜いた剛腕、
玄々斎です。
明治政府が茶道を「遊芸」として扱おうとした時に、
《茶道の源意》を書いて、
「茶道の本来の意義は、忠孝五常の道を精励し、
~分限相応の家業を怠らず~
貴賤を超えて人々が親疎の隔てなく交わり、
子孫が末永く栄え無病と延寿の天恵を仰ぐことである。」
と宣明し、
茶道の社会的な地位が貶められるのを塞いだのも玄々斎です。
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本作品は、桜の樹で作られ、
中ほどから上、櫂先までは、皮がすっかり剥かれた白木状態。
中ほどから下は、桜の艶々の表皮が残され、
中間に、白木と皮の間の、濃い茶色の部分が、
年輪に沿って斜めに景色を成しています。
箱の甲には、
「以虚空蔵堂前桜作之」(虚空蔵堂前桜を以って之を作る)。
向かって左側面下に「今日《玄々斎花押》」
右側面に壬戌春十三ノ内。
いずれも玄々斎の筆で墨書きされています。
「壬戌」は文久2年(1862)。
この年8月に、玄々斎待望の跡取り一如斎が17才で他界。
本作品はその年の「春」とありますので、
一如斎存命中に作られた13本の内の一つ。
木製の茶杓は、のっぺりとして面白くないお品が多いですが、
本作品は、桜の表皮~中の年輪への流れが非常に美しい表情です。
裏側は、背中部分を平らに、側面を面取りしてあり、
ただ丸いだけでないシュッとした姿です。
さすが玄々斎さんの美意識。
「虚空蔵堂」は嵐山の法輪寺のことか定かでありません。
箱の蓋は差し込み式。
手がかりに、唐木か黒柿の別材を嵌めた凝った作りです。
欠損箇所がございます。
《お買い上げありがとうございます》
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